201. 3-11津波被災地を訪ねて 2018年3月11日

(1)はじめに

 2011年3月11日の東日本大震災からちょうど7年がたった。
 そのとき、私はまだタイで仕事をしていたのだが、テレビで見るその悲惨さは目を覆いたくなるものであった。
 翌12日は土曜日で休みだったので、バンコクのアパートでずっとNHKを見ていた。
 特に福島第一原発の状況を固唾を飲んで見ていたことを良く憶えている。
 2011年の秋にはタイも未曾有の大水害に見舞われ、その様子は「ワンダムおじさんの糖蜜色研究:4-6 タイの大洪水のとき土の色について考えた」に記載した。
 2011年は日本にとってもタイにとっても試練の年であった。
 翌2012年の4月に私は定年退職して帰国した。
 帰国後半年がたった2012年の10月に在職中にインドネシアやタイでいっしょに勤務した先輩や同僚といっしょに宮城県と岩手県の津波被災地を訪れた。
 仙台空港に集合し、そこからはレンタカーでの旅である。
 訪問場所を図1に示し、災害の記憶を留めるために被災地の写真を掲載することとしたい。

 


(2)大川小学校の悲劇

 地震発生後約50分が経過した15:36分ごろ津波が追波川(おっぱがわ)を遡上し河口から5kmの地点にある大川小学校を飲み込んだ。
 全校児童108人のうち74人が,教職員13名のうち10名が死亡する大惨事となった。
 それまで、津波がそこまできたことはなく、住民がいざというときは大川小学校が避難場所になると考えていたとのことだ。
 
 慰霊碑には多くの人が訪れていて、私たちも献花をした。(写真1,写真)

 

 写真3.写真4は無残に破壊された校舎である。
 津波到達まで学校の裏山(写真5)に逃げるかどうかの議論がされたが、当時は雪が積もっていたこともある危険と判断され それはなされなかった。
 もし、あのとき危険をおかしても裏山に登っていたら多くの命は救われただろうと言われている。、

 


(3)南三陸町防災庁舎の悲劇

 南三陸町の人々は「地震の後に津波が来る」という意識が高く、3階建ての防災庁舎が準備されており、ここに避難した。
ところが、押し寄せた津波はその屋上より2mも高い想定外のものであった。






(4)大船渡市海岸付近

 私たちは大船渡市のホテルで一泊し、翌朝ホテルの近くを散策した。
 津波前は多くの建物があったのだろうが、何もない。
 ただ瓦礫が取り払われた広大に土地にまっすぐな復旧道路が通っていた。
 写真5は備えられた花。ここでも多くの人々が一瞬にして命を奪われた。




(5)陸前高田市の道の駅

 陸前高田市では多くの瓦礫が集められているところを見た(写真7)。また道の駅では建物の14.5mの高さまで津波が押し寄せたそうだ(写真8)。
 想像を絶する高さである。




(6)気仙沼市の陸に上がった漁船

 大きな漁船が打ち上げられているのを見た。(写真9)
 津波直後の報道写真(写真9’)を見ると、漁船が打ち上げられたあたりには多くの家があったのがわかる。
 しかし、このときは何もなくなっていた。雑草が生え、鉄骨が剥き出しになった建物の跡が残っていた。(写真10)
 気仙沼漁港では何台ものポンプが動き排水作業が続いていた。(写真11)


 


(7)名取市閖上(ゆりあげ)地区

 見渡す限り何もなく、雑草が茂った広大な土地が続いていた。(写真12)
 遠くには津波で発生した大量の廃棄物を処理する工場が見えた。(写真13)
 私たちと同じように、多くの人々が慰霊のために訪れていた。(写真14)


 

 閖上中学校もまた指定避難場所であったが、まだ若い中学生の命が失われた。(写真15,16,17)
 


(8)おわりに(伊勢湾台風の記憶)

 実際の被災場所を見て、この津波は従来の常識を越える大きさで指定されていた避難場所が役にたたなかったことを知った。
自然の力というのは、人間の力を越えていると思う。
私は7才のときに伊勢湾台風で九死に一生を得、それ以来台風恐怖症になっている。

 伊勢湾台風は図1に示すような経路で進み、私の生家のあった三重県一志郡美杉村を直撃した。
人的被害を見ると死者と行方不明者は東日本大震災より少ないものの、負傷者は極めて多く日本の自然災害史上に残る台風である。


 そのとき私は小学2年生、大きな台風が来るというので児童は早めに帰宅することになった。
それまで台風を怖いと思ったことなどなく、学校が早く終わって喜んでいたぐらいである。
その夜、眠りについた頃「ドドドーン」という大きな音がして目が覚めた。地震だと思った。
しかし、それからすぐに雨戸をやぶって水が家に流入、畳がピカプカと浮き出した。
後でわかったことだが、前の山が崩れて川をせき止め一挙に水が溢れてきたのであった。
そのとき私の家族は祖父、祖母、父、母、父の妹、私、私の一つ下の弟の7人であった。
水はすでに私の背丈より深くなっている。「このままでは危ない」という祖父の判断で、私は父に、弟は母におんぶ去れて水の中を脱出した。
めざしたのは、山から離れた田んぼにある空き地。
しかし、田んぼの中で私の首に何かが巻き付き動けなくなった。
垂れ下がった電線であった。すでに停電していたからよかったものの、そうでなければ7才の若さにして私はあの世にいっていただろう。
何とかして空き地にたどりつき、そこで一夜を明かした。
翌日は台風一過の快晴だったと思う。
まわりの風景は変わりはてていた。

小さいながらに、自然の恐ろしさに身震いしたものである。

災害には備えなければならない。
しかし、一体どこまで備えれば良いのだろう。
願わくば私が天寿を全うするまでの間、あんな怖い思いをしなくて良いことを祈るばかりである。

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