117. 小学校時代の通学路 2016年7月24日
毎年、7月中旬には三重県津市の従兄弟の家を訪ねている。 一昨年と昨年は映画「Wood Job」のロケ地を案内してもらった。(27.神去村,70.続神去村)
今年は私が小学校時代の通学路を歩いてみた。そのルートを図1に示す。
私の生家は現在の三重県津市美杉町上多気(かみたげ)奧立川(おくたてかわ)というところで、小学校(当時の美杉村立多気小学校)までは約6kmある。
多気小学校は今はなくなり「美杉ふるさと資料館」になっている。
現在はりっぱな国道368号ができ、美杉ふるさと資料館から私の生家までは、わずか10分で行ける。
ちなみに、私の生家の土地のほとんどは国道になっており、今はわずかに跡地が残っているだけである。
1958年、小学1年になった私は毎朝5時半には起きた。6時15分ごろに私の家より上流にある子供達がやってくる。
奧立川地区のはずれ、ちょうど図1の「うぐいすの水」あたりで全員集合し、上級生を先頭にあとは背の順にならんできれいな列をつくって通学していたのである。
当時は20名ぐらいは小学生がいたと思う。現在はたぶん誰もいない。
帰りは、学年によって終業時刻が違うので、同じ学年同士の仲間(4人)、道草をしながら帰ったものだ。
「あのときの通学路をもう一度歩いてみたい。」というのが、定年後の夢の一つだったので、従兄弟夫妻にお願いし、その夢をかなえてもらった。
従兄弟の奥様が車で国道を通り、旧道と出会うところで待って安全を確認する役目(写真1)
従兄弟(私より二つ年上)と従姉妹(私より一つ年下)がいっしょに歩いてくれた。(写真2)
幼い頃、兄弟のように遊んでいた頃を懐かしく思い出しながら歩いた。
二人とも、私の生まれた奧立川よりはずっと開けた場所に生まれ(私の母の生家)、小学校の近くだった。
思い出の通学路歩きは奧立川地区(写真3、写真4)から始まり立川(たてかわ)地区(写真5)、町屋(まちや)地区(写真6)、谷町(たにまち)地区(写真7)へと続く。
通学路は立川川という川に沿ってあり、立川、奧立川という地名はこの川の名と同じである。立川川は八手俣(はてまた)川と合流し、さらに八手俣川は雲出(くもず)川と合流して伊勢湾に流れてゆく。
(1)奥立川地区
①②③④立川川の清流に沿って歩く。出発前は雨だったが歩きはじめたら雨も止んだ。とても涼しい。
⑤右側は絶壁で冬は氷柱ができていた。それを囓って通学したものだ。また、夕方暗くなると「幽霊」が出てきそうなところで、小走りで家を目指したことを覚えている。
⑥左側の杉は大きく成長していた。
⑦落葉が敷きつめられたようになっている道が美しい。
⑧このあたり、家はすべて放置され、屋根に木が生えていた。
⑨「清流の里ぬくみ」の前の川ではキャンプにきた子供達が水浴びをしていた。
⑩奧立川地区と立川地区の境界付近になると立川川の川幅は少しだけ広くなる。
⑪⑫「うぐいすの水」という泉である。昔はそんな格好の良い名前ではなかったと思うが、当時なんと呼んでいたかどうしても思い出せない。
この泉は坂道のちょうど麓にあり、夏の暑い日は、かならずこの水を飲んで一休みしてから坂道を登ったものだ。
今回も飲んでみた。予想以上に冷たい。
(2)立川地区
⑬立川地区にはいると実際に人が住んでいる家がある。
⑭坂向場(さかむかえば)の下の川と⑮坂向場の馬頭観音で、上多気では有名な場所である。
多気地域住民センターによる看板(2000年設置)には次にように書かれている。
「ここは「坂向場」という上多気区所有の土地である。伊勢参宮の盛んな頃、二泊三日の伊勢参りから帰ってくる多気の伊勢講の人たちを、講の家族や子供達が出迎えたところである。
子どもたちの楽しみは何と言ってもなんといってもお土産だ。あめ玉や菓子の入った袋を分けてもらった。
また、大人たちは無礼講で酒を酌み交わした後、みんなで道中歌の伊勢音頭を歌いながら家路についたという。
ここの一角に聖光寺から分霊したといわれる馬頭観音がある。馬頭さんと親しまれた馬頭観音は旅の途中を守る仏さまとして敬われた。特に馬連れの参宮道者や馬車引きを生業にしている人たちは、
その恩恵を感謝したり、不幸にして道中で倒れた馬の供養をしたと思われる。
また、この坂向場は傍を流れる立川川の浅瀬で水を飲ませ、洗い、休養させるのに都合のよい場所でもあった。
昔は馬車組合があって、上多気だけでも馬が30頭もいたといわれる。」
実際に私が幼い頃、奧立川地区では年に1回は必ず伊勢参りがあり、祖父が参加していた。 確か、この坂向場に集合してそれからバスでいったのではなかったかと思う。
お土産は大いに楽しみで、なかでも「赤福餅」は最高であった。
⑰昔のままの家並みである。このあたりは小学校、中学校の同級生の家があった。
⑱「東屋ようかん」をつくる東屋である。東屋のようかんは美杉の名物、お客様が来られたときは父がいつも予約して渡していた。赤福餅に勝るとも劣らぬ美味しさである。
生産量はごく少量でなかなか手に入れるのが難しい。当時はお菓子やパンを売る一番近くのお店であった。すなわち、ここまで来ないとお菓子にはありつけなかった。
⑲左手は立川川、右手は絶壁、台風でたびたび崩れていた。
⑳川から離れている町屋地区への用水路のための堰である。
帰り道、一人でぼんやりと歩いていてここに落ちそうになったことがある。落ちた瞬間、手で道路脇をつかんでぶら下がり、這い上がり、九死に一生を得た。
㉑きれいに並べられた丸木、昔はこのあたりに製材所があったはずだが。
(3)町屋地区
㉒町屋地区にはいるとさらに人家が増えてくる。
㉓㉔㉖㉗㉘当時と変わらぬ古い町並みを通る。小さい頃はもっと道が広かったような気がする。自分が小さかったからだろう。
㉕町屋公民館と表示がしてあった。昔は「登記所」であった。
㉙町屋地区と谷町地区の境にある橋「大橋」から上流を望む。すでに立川川と八手俣川は合流して水量も増えている。
㉚大橋から下流を望む。ゴールまでもう少しだ。
大橋はその名のごとく、子供の頃は巨大であった。しかし、世界が広くなってもっともっと大きい橋を見た結果、大橋というのはちょっと名前負けしているように感じた。
(4)谷町地区
㉛左手の家は昔、旅館兼うどん屋の「銭屋」である。父につれていってもらって食べた「かやくうどん」の味が忘れられない。
㉜右手は製材工場跡である。小学生のころこの製材工場で働く人たちを写生したことがあった。
㉝左手のりっぱな石垣の家にいた同級生はどうしているだろう。まっすぐに進むと小学校がある。大きな樹木は確か桜の木で入学式のころはいつも満開だった。
㉞谷町地区は川よりかなり高いところにあるため、コンクリート製の用水路があった。この下の川はかなり深い。
㉟昔の役場跡に、火の見櫓が昔のまま残っていた。
㊱私がいたころは美杉村立多気中学校、その後中学校は統合され、小学校となり、今は小学校も統合され津市多気出張所(津市多気地域住民センター)となっている。
昔の校舎はもうなくなっていた。
(5)河岸の樹木
沢クルミが実をつけていた。(写真8) 実は、子供の頃この沢グルミの木があったとは、まったく気がつかなかった。どうしてだろう。従兄弟も気づいたのは最近らしい。
クルミ科の植物であるが、オニグルミとは違い食用にはならないらしい。もし、食用になっていたら、子供の頃知らないはずはなかっただろう。
立川川の河岸にはネムノキの花が咲いていた。おとなしいピンク色なので周りの緑に染まってしまいわかりにくいが、肉眼でみると実に美しい。
このネムノキは小学生のころと同じその場所にあった。(写真9)
懐かしさ満喫の一日であった。
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